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夜の作業
競り
岡山出張中、たまたま近くで木材の市があるとの誘いを受けて、現場を午前中で終えて現地に向かう。広大な敷地に所狭しと木が並ぶ。大手問屋の市とあって、全国各地からいろいろな木が展示されている。目玉は競り。うまくすれば通常の市価よりもかなり安く買える。気になったのはポプラの一枚板2枚。大きな節はあるけれども、幅90センチ、長3mの大きさが魅力。結局誰も買い手が付かなかったので、最後にすっと手を挙げて、当初頭に描いていた値段で落札。ケヤキといった人気のある樹種や、万人が認める「いい木」は、どうしても競り合って高値となる。幸か不幸か、どうやら私はひととは価値観が異なるらしく、これまでもあまり競り合うことがない。 競りではなく値札が付いて並んでいたケヤキの板、グローブを広げたような格好のもの、一目で気に入ったのだが、売約済みとのこと。いつも思うが、木とは一期一会。これはと思ったものはそのとき買っておかないと必ず後悔する。


鉄刀木(タガヤサン)
岡山から戻りました。内部の大工工事はほぼ終わり、あとは建具工事と家具工事です。
工事開始のとき「処分してほしい」と頼まれた(恐らく)鉄刀木(タガヤサン)という木の一枚板の座卓、幅92センチ,長さ150センチ厚み5.5センチあり、表面はウレタン塗装が分厚く施してありました。なにぶん分厚く重すぎて、仕上げもピカピカすぎて、このままでは使いにくい。応接間のコーナーテーブルとしてよみがえらせようと、引き上げる直前に、現地の製材所に持ち込みました。製材機にかかるぎりぎりの大きさまで幅を落として、裏表両面を7ミリずつ程度削ぎ取ってもらいました。製材機のノコの跡が木の木目を微妙に揺らして、これはこれでおもしろい。かんなで仕上げずに「このまま使おうか」という話も。
閑話休題。表面を薄くスライスすると、端にシラタ(白身)が現れたのに驚く。仕上げ時に着色してウレタン塗装をかけたのだろう。わかっていればそちら一方だけ幅を落としたのに。ダマしのテクニックにすっかりはまってしまいました。

工事開始のとき「処分してほしい」と頼まれた(恐らく)鉄刀木(タガヤサン)という木の一枚板の座卓、幅92センチ,長さ150センチ厚み5.5センチあり、表面はウレタン塗装が分厚く施してありました。なにぶん分厚く重すぎて、仕上げもピカピカすぎて、このままでは使いにくい。応接間のコーナーテーブルとしてよみがえらせようと、引き上げる直前に、現地の製材所に持ち込みました。製材機にかかるぎりぎりの大きさまで幅を落として、裏表両面を7ミリずつ程度削ぎ取ってもらいました。製材機のノコの跡が木の木目を微妙に揺らして、これはこれでおもしろい。かんなで仕上げずに「このまま使おうか」という話も。
閑話休題。表面を薄くスライスすると、端にシラタ(白身)が現れたのに驚く。仕上げ時に着色してウレタン塗装をかけたのだろう。わかっていればそちら一方だけ幅を落としたのに。ダマしのテクニックにすっかりはまってしまいました。

背負うということー建築編
近年の棟上げはそのほとんどがクレーン車にたよるものだが、手あげ(=柱や梁などを人力だけで組み上げる)の現場は今でも存在するし、今後もゼロになることは無い。小規模なもの、重機が近くに入らない敷地、現場合わせの多い増改築においては、小回りのきかない重機は無用の長物であり、熟練した職人の手に劣ることもしばしばだからだ。数十本もの、何十キロもの材料を、人力だけで自分の頭上高く組み上げるのは、危険で過酷な作業ではある。けれども、数ヶ月かかって墨付け、刻みという作業をこなしてきたのにもかかわらず、一抱えもあろうかという梁が、クレーンによっていとも簡単に瞬時のうちにそれらが組み上げられて家の骨組みが出来上がってゆく様は、見事なまでにあっけなく、それまでの労苦を肌で感じるものにとっては興醒めですらある。
棟上げは危険をともなう作業であり、重機を使用することは安全確保のため必然ではある。しかし、様々な事情でそれが不能な時、すなわち、やむを得ず手あげになるときの気持ちの高揚は、やはり否定できない。大変な作業に対する戸惑いと、それを回避したい気持ちがまず一番にあるのではあるが。手あげによる棟上げは、ここにいたるまでの作業に対する敬意であり、それを再度、皆で背負うことによって自らの体の労苦で再確認する過程である。しいては、手あげは木に対する敬意の表現でもあるようにも思う。
建設現場で安全と効率が第一とされることに真っ向から異を唱えることはできないけれども、すべてが効率化されてしまって、そこに携わるひとびとの汗のにおいや手垢の跡を、肌で感じることができないとすると、そんな仕事のどこに魅力があるというのだろう。仲間と一緒に一本の梁を背負うという作業に、私は無上の価値をみる。
棟上げは危険をともなう作業であり、重機を使用することは安全確保のため必然ではある。しかし、様々な事情でそれが不能な時、すなわち、やむを得ず手あげになるときの気持ちの高揚は、やはり否定できない。大変な作業に対する戸惑いと、それを回避したい気持ちがまず一番にあるのではあるが。手あげによる棟上げは、ここにいたるまでの作業に対する敬意であり、それを再度、皆で背負うことによって自らの体の労苦で再確認する過程である。しいては、手あげは木に対する敬意の表現でもあるようにも思う。
建設現場で安全と効率が第一とされることに真っ向から異を唱えることはできないけれども、すべてが効率化されてしまって、そこに携わるひとびとの汗のにおいや手垢の跡を、肌で感じることができないとすると、そんな仕事のどこに魅力があるというのだろう。仲間と一緒に一本の梁を背負うという作業に、私は無上の価値をみる。